白楽天と空海ーー日文原文摘录

注:
1、原文内容来自太田次男先生的著作《中唐文人考-韩愈·柳宗元·白居易》,所有权利属于原作者。
2、由于内容较多,可能会分好几次完成。
3、日文初心者水平,不负责翻译,也可能出现错漏。
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 先年、司馬遼太郎の『空海の风景』なる一本が刊行され、司馬的発想による空海への肉迫が話题を呼び、多くの続書子に好評をもって迎えられた。

笔者はこの本が中公文庫に入れられた昭和五十三年になって始めてこれを手にし、空海のあの天才的語学力を說明するために、普通いわれている初めての入唐のときより以前に、一度密行して既に唐入にも接触していたのではなかろうかという推論なはじめ、この人ならではの天馬空をかけるかのような創意に滿ちた數多くの立論に對しーー意地わるい見方をすれば、その準備のためには、恐らく多年を要したであろことを思って、ひそかに敬意を表してきた。

それゆえ、大岡信氏が巻末の解説のないで、「書きあげられた『空海の風景』は、まさしく小説にちがいなかったが」とことわるとともに、更にをついで「伝記とも評伝ともよばれうる要素を根底にい置ているがゆえに、空海を中心とする平安初期時代史でもあれば、密教とは何かに関する異色の入門書でもあり、最澄と空海の交涉を通じて語られた顯密二教の論でもあり、またインド思想·中国思想·日本思想の、空海という鏡に映ったパノラマでもあり、中国文明と日本との交涉史の活写でもあるという性格のものになった。」としているのに対しても、当を得た解説としてこれを受け取った。

いま、この本の中の一節をき、それを吟味することによって小論をはじめたとしても、それほど異例とはならないであろう。

延曆二十三年(八〇四)五月、空海は入唐するが、その乗った遣唐第一船には大使藤原葛野痲呂以下が同船し、行を共にした最澄は第二船にいた。遣唐船としては、この回も決して順調な航海とはいえず、第一·二船はそれぞれ別々に中國に到着し、第三·四船は遭難したといわれる。大使や空海の一行が同年十月にようやくたどり着いた福州の南部から十二月下旬に長安に到着したとき、最澄は誰もが憬れる長安などには目もくれず、一路目的地に向い、既に天台山に在った。

これは、一行が長安に到着するすぐ手前にきた頃の本文の描寫であるが、空海は船中以来、同行の橘逸勢とは特に親密になっているものとして描かれ、驪山の辺りを通るとき、ここでも両人の会話と共通の感想がこう述べられている。


玄宗皇帝とその寵姬楊貴妃との恋によって、驪山温泉は詩の名所になった。玄宗は每年十月から長安を離れ、この驪山の温泉場に避寒する習慣になっていたのだが、かれはそこではじめて楊家の美女を見た。玄宗五十六嵗、貴妃二十三歲である。白樂天はその「長恨歌」でいう。


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